【Bless, 22 & 17 in 2025】
大覺臣ツツジ
チャイムが鳴る。窓の外の空に消えかけていた意識が現実に呼び戻された。

「では、時間になりましたので今日はここまで。来週の期末試験では不動産への抵当権については配分多めで出題するのできちんと復習しておいてくださいね」

初老の教授が手元のノートパソコンを閉じ、モニターに投影されていたスライドも消える。静かだった教室内が一気に騒がしくなる。みんな思い思いにスマートフォンなどを取り出して、好き勝手に会話をし始める。
私はといえば、慣れない分野の講義を聞き続けたせいか微妙に頭が痛かった。ちょうど昼休みだから、気分転換で外に出よう。

机の上に広げていたノート・筆記用具とスマホをバッグになおして、それから立ち上がる。周囲に座っている男子の何人かがこちらを見た。

◇

キャンパスライフは思っていたよりも順風満帆ではなかった。少しの怠惰と、そこそこの努力で実家の近くの大学に入学したものの、それが逆によくなかったのかもしれない。
地元の大学で、知らない人たちに囲まれる違和感。
大学生といえばサークル活動だから、サークルにも入った。思えば3年前は大学生らしいことをしようとしていた気がする。一回生までは頑張っていた。その後、人間関係の難しい問題などもあったからサークルに参加こそすれ深入りすることもなくなり、宙ぶらりん。そこまで深い人間関係ができている気もせず、キャンパス内ですれ違って「よっ」と言葉を交わす程度の交友関係は大きく広く。もう三回生も終わるのだ。いよいよ22歳だ。つまり、就活の準備をやっていなければいけないはずなのだ。気づけば四回生が始まる。

「いやだなあ」

思わず零れ落ちた本音。いよいよ社会に出ることになってしまうのだ。
思えば小学生から始まった「学生」の身分も終わりを迎える。いよいよ社会の荒波に放り出されるわけだ。まもなく22歳を迎える私の身体は、間違いなく大人の造りをしているけれど、社会の荒波に当たれば一気に粉微塵にされてしまうくらいに脆い。脆いのだ。
思いを巡らせたくない将来から視線を遠ざけるべく、視線を地面から上げる。

学食は満員だったからサンドウィッチを買って外のベンチに腰掛ける。冬場とはいえ、太陽の明かりが眩しいからスマホの液晶は見ることも難しい。ただ黙々とビニル製の包装を解いてハムとレタスとトマトの色鮮やかなサンドウィッチに齧りつこうとした、その時。

「ねえ、隣いい?」

頭をよぎるのは「またか」という感情。大学に入ってから半ば慣れつつあるとはいえ、この手の類の雑なナンパは鬱陶しい。こうした手合いは無視をするに限るのだけれども。
いや、待てよと思い直す。どうも様子が変だった。声が男性ではなかった。

視線をサンドウィッチから上げると、そこには女子高生がいた。しかも、見慣れた制服を着た女子高生だった。それは、かつて私も通っていた高校の制服で──。

「えっ、わたし」
「静かに」

女子高生はするりとベンチに、私の隣に腰掛ける。銀色の長い髪の毛をポニーテールにしており、スカートも校則を気にしない短さにアレンジして、何より黒子の位置まで。

「ねえ、あなたって私?」

女子高生は困ったように頬を掻くと、まあええかと呟いてから頷いた。

「そう、私はあなたと同じ樋口楓。違いは年齢と、髪の毛の長さくらい」

私は髪の毛をボブカットにしている。高校卒業のタイミングで切ったのだ。

「今は2025年?」
「うん。あなたは2018年の私なの?」
「ううん、私も2025年のあなただよ」

しばし困惑する。過去から来たはずの女子高生をやっている樋口楓なのに、私と同じ2025年の樋口楓だと言っている。

「私はあなただけど、あなたと違って歳を取らへん樋口楓なの」
「歳をとらへん私…」

歳を取らないなんてことなど、あるのだろうか。常識的にありえない。しかし、そもそも私自身がもう一人いるということ自体が常識的にありえない。
ファンタジーでしかありえないような状況に、少しずつ納得し始めている自分がいる。

「そう、歳を取らないから、すぐに姿を変えることもできんねん」

そう言うと、17歳の樋口楓は指を鳴らす。瞬く間に女子高生の姿は消え、代わりにブーツを履いてコートを着た服装の、女子高生には見えないような姿の私が現れた。髪の毛もポニーテールではあるが、大きくボリュームを増している。

「それは?」
「魔法が使える服装、ちょっと来てみて」

17歳の私は手を握ってくる。「あー、先にサンドウィッチは食べておいた方が良いかも」次の瞬間、視界が一気に回転する。サンドウィッチは手からこぼれ落ちた。鳩やカラスが飛んでくる。
ぐるぐると回転した視界はすぐに収まり、いつの間にか私は空を飛んでいた。

「ほら、此花大橋」

眼下にはユニバや、此花区の工場群が見える。
人だかりがある。あれはライブハウスだろうか。

雲に包まれ、また視界が開けると今度は大きな屋根と海岸線が見えた。あの全面ガラス張りの特徴的なホテルは知っている。眼下には野球場もある。遠くには東京スカイツリーをはじめとした東京の摩天楼群。眼下は幕張か。

「すごい、空を飛んでいる」
「ついてこい、人類っていうやつ」

身体はそのまま東京上空を駆け抜け、スカイツリーにほど近い大きな青緑の屋根の近くにきた。両国国技館だ。いつの間にか景色は夜景に染まっており、国技館からは多くの人が出てきていた。
視界はうつろう。次は山がほど近いモノレールのある街の上空を飛ぶ。まだ新しいコンサートホールが眼下に見える。

「これはどういう場所なの?」
「これは私に所縁のある場所だよ」

モノレールのある街並みは消え去り、池袋の街並みが現れる。アニメイトのビル、サンシャイン60が視界にそびえ、その街並みもいつの間にか異国の景色になる。竹のような見た目の高層ビルはたしか、台北のタワーだ。異国情緒の溢れるビル群や寺院の隙間を抜けて川を越え、メトロの高架橋の隣にあるビルの屋上に辿り着く。

「いろんな場所に所縁があるんだね」
「そうやね。おかげさまで」

目の前に立つ戦国大名の陣羽織のようなコートを身に纏った17歳の樋口楓は真っ直ぐにこちらを見つめる。
関西から東京、そして台湾まで。世界中を駆け回っているもう一人の樋口楓。
私は大学のキャンパスの片隅で、百円くらいのコーヒーを片手に息抜きをしたり、人混みの学食を避けてサンドウィッチを食べる程度。家の周辺か、梅田か三ノ宮か。遠くても広島だ。私より五歳若い樋口楓は、なんと行動的でワールドワイドなのだろうか。

「次はロサンゼルスとか行くんちゃうん?」
「まだ米国は無いかな。でも、私はハワイには行くでしょう?」
「せやね」

もう一人の私は17才のまま時を止めて、それから今は台湾まで行ったのか。

「歌手をやってるの?」
「あれ、何も言っていないのに」
「全部ライブ関係の施設で、明らかなライブ衣装やし。絶対トランペットでは無いやん」
「この格好でトランペット吹いてるかもよ?」

おどけて見せる樋口楓は、私が最近すっかり見せていない樋口楓の姿な気がした。

「デビューして何年?」
「七年」

思わず視線を逸らして、遠くの景色を見つめる。暗闇の中で夜景が煌めいている。急に遠くに聳えるタワーから滝のような花火が上がった。

「なるほど、七年で海外でもライブができたんだ」
「そう」

七年。たった七年か、七年かけて、どちらだろうか。それは目の前の樋口楓しかわからない感覚だろう。

「22歳の私はさ、元気?私はもう22歳になることは無いからさ」

17歳の私はしゃがみこみ、こちらを見上げてくる。紫色の瞳がつるりと煌めいている。

「まあ、充電期間やね」

私もしゃがみこみ、17歳の私と視線を合わせる。そして、目をじっと見つめる。

「でも、私より年下の私が7年かけて海外に飛び出たんだから、私もなんでもできるような気がしてきたよ」
「それはよかった」

手袋をした樋口楓の手が、私の手に触れる。同じ自分だから、手の大きさも同じ。

「17歳のあなたは、毎日楽しい?」

17歳の私は、こちらをじっと見つめ、それから微笑んで口を開いた。

◇

気づけば見慣れた天井だった。
手元のスマートフォンの電源をつける。ロック画面のデジタル時計は2025年の2月8日の0時を示していた。東京の空の旅も、台北のビルの屋上も全ては夢幻だったのだろうか。

いや、夢幻では無いだろう。私の手には確かに、5歳下の17歳の私の手の感触が残っている。もう一人の自分が最後に口にした言葉はもはや思い出せないけれど、それでも後味が良い物だったのは間違いない。

ベッドから出て、窓辺に近づく。カーテンを開けて、夜空を見上げる。雲一つ無いけれど、街明かりのせいで星は見えない。天高く遠くに航空機か何かの明滅する光が見える。もしかしたら17歳の、歳をとることがなくなったもう一人の私が空から見下ろしているかもしれない。

窓を開ける。寒い空気が鼻に触れる。息を吸う。

「7回目の誕生日、おめでとう」

正確には誕生日ではないだろう。だけど、歳を取らなくなった記念日なのだから生誕祭として祝っても問題あるまい。

8年前とは様々なものが変化したが、8年前と変わらない初春の気温を纏いながら8年目が始まった。                        
                        
モドル