「副会長」 起きてください、という声が、上から聞こえた。 目を開くと視界が暗く、薄く入る光から、自分の腕が確認できた。どうやらソファにうつ伏せになって寝ていたらしい。枕がわりにしていた腕がうっすらと痺れている。 ゆっくりと顔を上げると、ぼやりとした視界に、緑の髪が見えた。 「みどり、くん?」 「え? 何、もっかい言って」 「……りゅーしぇん」 「ああ、うん。や、別に僕以外いないし、寝てて全然、別にいいんだけど」 ふ、と緑仙が時計の方を見た。釣られて、ソファに凭れたまま時計を見る。 生徒会室には夕方に差し掛かった陽が大きな窓に差している。 「楓ちゃんさ、吹部の方の練習、今日あったんじゃないかなって」 「ウェッ」 ダン! と大きな音を立てて勢いよく立ち上がる。慌てて机にあったカバンを引っ掴んでドアへ走った。 「ごめん! ありがと」 「いえいえ〜」 手をひらひらと振られて、ひらひらと振り返す。 瞬間に巡る小さな違和感。 がらんとした生徒会室。どこにも可笑しなところはない。あるべきものがあるべき場所にある空間。 「……今日ってさ」 口から出た自分の声が少し震えていた。 「うん?」 「撮影、だから、レオスとかもいなかったっけ。ンゴちゃんも……明那と会長は、別の打ち合わせで二本目からで……」 「ああ」 緑仙が、にこりとしてから頷く。 頭がジンジンと、熱を持って痛む。具合が悪いとか、そういうのではなくて、なんだろう。 違和感。小さな、目を瞑れば過ぎ去るような、違和感。 吹部の全体練習があることも、確かに覚えがあるのだ。けれど撮影があるのも確かな記憶にあって。でも撮影って、なんだっけ。なんの? 「大丈夫だよ、だいじょぶ」 何のことはない、という声で、緑仙が笑う。過不足なく、違和感なく、今して欲しい笑みの中で最適解の爽やかさで。 「……なんかさ、ちょっと良い色の夢みたいだよね」 ※ 「樋口副会長」 後ろから声をかけられて、わ! と大きな声が出た。ほぼ同時に「わぁあ!」という声が響いた。 「びっ、っ、っ、くり、したなぁ! もぉ〜。ちゃんと言ってくださいよ先に。大声出しますよ、って」 「あ?」 「あ? じゃなくて! 声かけただけじゃない! そんな睨まなくたっていいでしょぉ」 レオスがやれやれと大袈裟な動きでため息をついた。 「レオス?」 「何です? いや、用があるのはこっちなんですって。これからサンゴくんとディベートするので審査員してほしくて」 「また? 今回は何でやんの」 「どっちがかぶいているかを決めます。歌舞伎者決定戦」 「かぶきもの?」 それからレオスは、廊下の真ん中で滔々と歌舞伎者とはどんな存在なのかを声高々に説明し始めた。へー、とかふぅん、とか一応の生返事をしながら、目を右から横に流して、廊下の全体を確認する。自分らの他に人一人いない、薄暗い寂しい廊下だ。 私いま、廊下に居るんか。記憶が、またぼんやりとしている。 普通に職員室行って、一回教室戻ろうとしているところだった。それは覚えている。覚えているのに、違和感がある。 「だからぁ、絶対負けられないワケ! なんか緑先輩だけだと公平性に欠けるかなと思って、副会長も来てほしくて」 「レオスさぁ」 「何です?」 「昨日、収録の時すれ違ったよな」 口を出た言葉に、自分で驚きながら、レオスの方を見つめる。 長いまつ毛をぱちりとはためかせて、それからにたりと怪しく笑う。 「ええ。ちゃんと挨拶しましたよ。その時はそこまで驚かれなかったなぁ」 「私、そん時、挨拶返したよな」 「はい。ああ、覚えてるんですね。樋口くんも」 樋口くん『も』? なんかこんなこと、前もあった気ぃする。 緑仙ともそんな話をして、それから吹部の練習に向かって、嗚呼。 それから、どうしたのだっけ。 「若さ、って言ってしまうと、陳腐が過ぎる気もするんですが」 少し鋭い水色のアイウェアをくいっと持ち上げてから、ゆっくりと微笑む顔が、高校生に似つかわしくないことも、なにも可笑しくなくて。 「朧げで綺麗なものが増えることも、何ていうのかなぁ。青春の責務、ですからねぇ」 ※ 「か〜えでさんっ」 鈴を転がしたような声が響いた。 ぱっと顔を上げる。自分が机に突っ伏していること、腕が痺れていること、額におそらく服の跡が付いていること。どれも瞬間に分かったから、いま知りたいのは自分がどこにいて誰が声をかけてきたのかということだ。 とはいえ、今回は誰なのか分かっていた。 「ンゴちゃん」 「え! あ、びっくりしたぁ。ごめんね、寝てた?」 「いまおきた」 「ホント? あのねあのね、今度の収録の時に、このゲームやろ〜?」 スイッチの画面を見せられた。知ってるゲーム。 「収録……」 「? うん。公式のやつ……楓さんもいるよね?」 「生徒会、の」 「生徒会さん? も、撮影近いねぇ。でも入りから開始までの時間ちょっと短いから、ゲームやる時間あるかな」 頭がぐちゃぐちゃする。目の前のンゴちゃんは、世怜音女学院の制服を着ていて、私も自分の学校の制服を着ている。 自分の学校? 「……楓さん、具合、悪い?」 「ううん。元気よ。ゲームやろね」 「ほんと? ……びっくりした。副会長さんって感じの目だったから」 ぴたり。不意に、時計の針が止まったような気がした。時計をもう一度確認する。針は当然のように動いていた。 カチ、カチ。音が響いて、ほんの少し眩暈がする。 「ンゴちゃんも覚えてんの」 「覚えてるも何も」 ンゴはずっと生徒会さんの雑務だよ。と笑う顔は無邪気で、たまにこの子がするお腹の底がしんとするような冷たさは無かった。 生徒会さんだいすき〜と、どこまでも楽しそうにはしゃいでいる時の表情。それが本音なのが分かるくらいには長い付き合いになっている、と思う。 「たまにね、ンゴもあるよ。今のンゴって、中学一年生だっけ、高校一年生だっけ、って時。でもどっちも大切だしさ。どうやってもンゴはンゴだし」 「そやね」 覚えがある。知っている。あやふやであいまいで、自分と世界の境界線が見えなくなる時。でも、それはとても贅沢で幸せな時間であることも、知っている。長く走ってきて、振り返った時に感じる贅沢さではあるけれど。 「みんなでずっと一緒に、楽しいことしたいね」 「うん!」 終わりがあるという事実を、腹底に落としている今。納得も現実味も無かった昔。 けれどいつだって、このときこの時間はいましかないのだ。 ※ 「あれ、副会長」 あ、や、でろーんさん。と明那が笑った。 今度の廊下はさまざまだった。ライバーが通り過ぎていくし、明那の先にも何人かライバーが歩いていた。 ちょっと先行ってて、と前の彼らに軽く声掛けしてから、明那が「これお土産」とカバンからお菓子の小袋を手渡してきた。 「クッキー。プチ旅行行ってたから、せっかくだし会った人に今配ってる」 「ん。ありがと。今食べていい?」 「今!? いやいいけど」 カシっと軽いアルミのちぎれる音。クッキーを取り出してもぐもぐと口にする。 「生徒会で旅行、可能性出てきたね」 カバンのチャックを閉めながら、明那がまた笑う。 「そやね。広報やから、写真撮らないとね、明那が」 「や、ほんまに。エモ写真選手権やるか」 くつくつと笑う。ホワイトボードに書いたいろんなことをぼうっと思い出していた。 旅行も、イベントも、パーティーも、あの部屋であのホワイトボードに書かれているだけで言葉以上に色めいて見える気がするから不思議だ。 明那は特に変なことは言い出さなかった。でも表情がどことなく二年生の広報の明那だった。 尖ってて、会長に殴り込みに来ていたころの、憂いと擦れはうっすらまだ残ってる。 「私がシメた頃の明那が聞いたら気ぃ可笑しくなってそう」 そう笑うと、丸い瞳がキョトンとして、それからふはっ、と快活な笑みに変わった。 確かに、信じらんねぇだろうな。なんて。 「私らが生徒会室でやってること、いまだに高校生にしちゃやりたい放題だけど」 「やりたい放題するのが高校生っしょ」 誰もが綺麗な完璧な青春を送ってはいないから、煌めきが通り過ぎることをよく知っている。 スタジオの廊下のLEDの光が、蛍光灯に見えること。 響いてくるライバーの声が放課後の部活動に聞こえること。 「青春やね」 明那がどこか遠くを見て微笑んだ。 生徒会室のドアの開く音が、どこからかする。 ※ 「副会長」 夜だった。月明かりの差す生徒会室の、会長席の前に私は立っていた。 椅子の裏側しか見えないけれど、後ろ姿は間違いなく叶さんで、会長だった。七次元の黒い制服が、暗い部屋の中で何故かくっきりと見えている。 「今日は帰るの遅いんですね」 椅子がくるりと回る。足を組んで膝を手で抱えている、いつもの会長。黒い手袋に月の光が反射して、白い輪郭が浮かんでいる。 「会長こそ、もう夜やん」 「なんかぼーっとしちゃった。ココ夜でもこんな明るいんやねぇ」 目を伏せぎみに、愉快そうに話す。ゆらゆらと椅子を回して、子供のように。 「もうみんな帰ったよ」 「ね。樋口さんも、もう帰る?」 「猫おるし」 「そっか。僕もそろそろ帰ろ」 ぎしり、椅子が軋む音。 静かな部屋に響くのはそれだけで、自分も扉へと身体を返す。スカートが緩く広がって、肩に羽織るジャケットを片手で留める。 静かやな。 ここを出たら、きっとまた私たちは違う私たちとして話をするんだろう。それは、別に悲しむことでも寂しいことでもない。 どかんという明るい爆発音が響いたのはその時だった。 「……え」 会長も私と同じように振り返っていた。 真昼みたいな明るい光が窓から降り注いでいる。花火だ、と分かったと同時、扉が開け放たれる音が響いた。 「まだいた! ねぇ緑さんまだいたよ二人とも!」 ンゴちゃんが、おさげを揺らして私たちを指差す。緑仙の姿は見えない。上の階段の方に向かって叫んでいたから、そちらにいるんだろうか。 「レオスさんがね、花火作ったんだって! 厳密には違うらしいけど、だいたい花火だから、屋上行こ!」 「これ、どこから打ち上げてんの?」 会長が窓を見ながら、呆けた声で尋ねた。私は、窓に近づいて、校庭を見る。校庭がある。当然のように、窓の外に。何かを打ち上げられるだけの、大きな砲台のようなものが、何かの機械に繋がっているのがわかる。 この教室の外側。屋上にまだ、道があるのが見えた。 まだ、ここに居ていいんだって、直感的に分かった。 放課後が、続く。 ※ 階段を昇る。ほんの少し、息が上がる。 花火の音がだんだんと近づいているのがわかる。どおん、どおんと、静かな学校のぜんぶに響き渡っていた。その音を聞きながら、チカチカと煌めく階段の景色を見つめながら、嗚呼、と腹の底にすとんと納得が落ちた。 混乱していた記憶が、樋口楓に集約されていく感覚がある。まだ少しぎこちないけど、でも確かに私の中に、ぜんぶがあることが解る。 吹奏楽部で、副会長で、この学校のアタマを張ろうとしている元ヤンキーの私が、生徒会長の叶さんと、雑務のンゴちゃんと、忙しく屋上を目指している。 何かの夢みたいで、生徒会室を出たら解けてしまう魔法のようだった。けれど部屋の外でも、確かに私たちはつながりをもっていて生きている。 高校生活という言葉の、終わりのある美しさも、なんもかんも、知っている。高校二年の私も連れて。 屋上へと続く冷たいドアノブを、会長が手袋越しに掴んで捻る。 「あ、きたきた」 「うお、ヤバイヤバイ、今のめちゃくちゃ近いやん」 「だぁいじょぶ大丈夫! 私そんなキケンなもの作りませんって」 「いやそもそも失敗作が偶然花火になったみたいなこと言ってなかった?」 騒がしい声を掻き消す花火の轟音と、鮮烈な光。 それが降ってくる、空から、私たちを照らすように。 「綺麗やね」 口から漏れていた。 自分でもちょっと面白くなるくらい、素直な感想だった。 「ンゴちゃんさ」 「ん?」 「ハイチュウはんぶんこしたの、覚えてる?」 「忘れるわけないでしょ」 食い気味に呆れられた。 「ンフ、ンフフフフ」 「え、何、笑い方やばいって」 「副会長壊れちゃった」 口々に言われて、一人でツボり出してしまう。なんでか変におもしろくて、とうとう蹲ってひぃひぃと笑い転げた。 「まぁ」 会長が夜空を仰ぐ。 「笑えるくらい綺麗だもんねぇ」 「上手いこと言ってる風なの何?」 風が不意に強まって、はたりとネクタイがはためいた。その時、バッジが花火の光で、キラリ、目映く煌めいて。 ※ 「楓ちゃん」 緑仙の声だった。 目を開けると、また暗闇で、だけど腕の痺れはもう少し強くて、突っ伏しているのは机だと分かる。 「……おはよ」 「おはよ。みんな揃ったからぼちぼち再開だって」 「うん」 「今日、仙河さん?」 「え? うん。仙河。いや別に普段もそうではあるけど」 「書記?」 「そうだね」 火が縄を焦がしていく匂いが、ずっとしている。だから楽しくて、くだらなくて、心地よい。 「暴れてもいい? 私」 「内容によるかも」 「んふふ」 本日も、生徒会活動を始めます。